2014年1月13日月曜日

讃岐うどんは立禅の如く

今年最初の三連休を利用して香川県へ。アートの島として名高い直島の観光が目的だったが、せっかくだからと高松空港から高松港へ移動する間、栗林公園付近の讃岐うどん屋に立ち寄った。

松下製麺所(食べログ
これまで行ったどのうどん屋とも異なる雰囲気がそこにはあった。
店内ではどの客もほとんど言葉を発せず、慣れた様子で流れるように注文を進めていく。器を取り、店主にうどん玉を入れてもらい、自分で湯掻いて出汁を入れ、必要なだけトッピングを加え、自分なりの一杯を完成させる。

その後席に着き黙々と食べ始める。どの客も器の中のうどんしか見ていない。しかし一方で、そこにはうどんへのいかなる感情も現れていない。特に味わう様子すらなく、浅く呼吸しているかのように、どこまでも自然にうどんを啜っていく。そのようにして皆5分ほどで食べ終わり店を後にしていく。

後でこの特異な体験を振り返り、そして思い至った。この傍から見たら異常でしかない客個々人の意識の完結性、定形的でスムーズな所作、そしてどこか静謐な雰囲気。これに似たものを以前体感したことがある。以前弓道をやっていた際に慣れ親しんだ射場の雰囲気だ。的を射抜くというという目的のためだけにその場に列し、予め定められた所作を淀みなく行い、一意専心で目的を果たし、物言わず去る。香川のうどん屋では、立禅と言われる弓道と並ぶほど、日常とは隔絶された、客によるうどんへの深いコミットが体現されていた。

いつか、高松市内より辺鄙なところにあるよりディープな讃岐うどん店を巡る旅をしてみたい。そこには村上春樹さんに「僕のうどん観にとっての革命的転換があったと言っても過言ではない(辺境・近境)」と言わしめた、価値観を揺さぶるようなうどんとの出会いが待っているのだろう。

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